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東京家庭裁判所 昭和59年(家)11509号 審判 1985年1月08日

申立人 陳秀栄

主文

申立人が、次のとおり就籍することを許可する。

本籍     東京都千代田区○町×丁目×番地

氏名     山崎栄

生年月日   昭和二〇年八月二二日

父母の氏名  不詳

父母との続柄 男

理由

第一申立ての趣旨及び実情

申立人代理人は、主文同旨の審判を求め、その申立ての実情として次のとおり述べた。

1  申立人は、昭和二〇年(一九四五年)頃、日本人を父母として中国黒龍江省において出生し、その父及び兄三名とともに昭和二一年(一九四六年)四月二二日頃、黒龍江省牡丹江付近から遼寧省丹東市に避難してきたが、当時申立人は目が悪く、また、体も弱かつたため、申立人の父から中国人である周興林に預けられ、更にいずれも中国人である陳錫宝、徐桂英夫妻に預けられ、以来同人らの許で養育されてきた、いわゆる中国残留日本人孤児である。

2  申立人が日本国民たる父及び母の子であり、日本国籍を有するものであることは、以下の事実及び資料から明らかである。

(1)  申立人が中国人養父母に預けられた当時の状況等申立人の父は申立人を養父らに預けた後、日本に帰国している。

また、申立人の養父は、申立人の父親が日本人であることを確認している。

(2)  中国における日本人孤児としての扱い申立人は、中国において一貫して日本人孤児としての取扱いを受けてきているものであり、申立人が日本人であることは、申立人の所属する職場等地域の中国人社会においては公知の事実である。

(3)  孤児証明書の存在中国政府が慎重かつ厳格に調査した結果、申立人が日本人孤児であると認定した証明書が発行されている。

(4)  孤児名簿への登載申立人は、昭和五八年三月厚生省援護局が作成した「肉親捜しの手がかりを求めている中国残留日本人孤児」(いわゆる孤児名簿)に登載されている。

孤児名簿には、中国政府のみならず、日本政府も、特に日本人孤児であることが間違いないと判断した人達のみが登載されるものである。この孤児名簿への登載という事実は、申立人が日本人孤児であることを極めて有力に裏付けるものである。

3  昭和二〇年(一九四五年)当時の国籍法(明治三二年法律第六六号)によれば、子が日本国籍を取得するためには、出生の時父が日本人であるか、父が知れないときは母が日本人であることを要し、父母が共に知れないときは日本において生まれたものであることが要件であつた(また、外国人たる子も日本人たる父に認知されたときは、日本国籍を取得することとされていた。)。本件では、申立人の父母についてはいずれもその氏名、本籍等を明らかにできないが、申立人の父母はいずれも日本から中国に渡つた日本人であり、その父が法律上の父か否かはともかく、少なくとも母は日本人であつたことは疑いないところであり、申立人は日本国籍をその出生により取得したものである。

4  申立人は、残留日本人孤児の肉親捜し訪日団の一員として昭和五九年一一月二九日来日した者であるが、右来日に先行して、委任状を申立人代理人に送付し、日本国に日本人として就籍を求め、残留「日本人」孤児という曖昧な立場から、晴れて本来の日本人としての法的地位を確立しようとしているものである。

5  よつて、申立ての趣旨のとおり就籍許可の審判を求める。

第二当裁判所の判断

1  (認定事実)

本件記録にあらわれた各資料並びに申立人陳秀栄及び参考人山本初に対する各審間の結果によれば、以下の事実を認めることができる。

(1)  申立人は、昭和二一年(一九四六年)四月、中華人民共和国(以下、中国という。)遼寧省丹東市(当時は安東市)○○○○○街において、氏名不詳の男性から同地に居住していた中国人周興林に預けられ、同月二二日頃同人から更にいずれも中国人であり農業に従事していた陳錫宝(一九〇一年生)及び徐桂英(一九二一年生)夫妻に引取られた男性であつて、当時の申立人の推定年齢は、生後八か月前後であつた。

(2)  陳錫宝、徐桂英夫妻は、申立人を引取つた後、同人を同夫妻の子として養育した。この点につき申立人は、同夫妻に引取られた際、同夫妻は、申立人の生年月日を引取りの日である一九四六年四月二二日とし、申立人を同夫妻の実子として届出ており、戸口簿にもこの旨の記載があるはずであると考えているが、申立人において、みずから戸口簿の確認をしたことはない。

(3)  申立人は、陳錫宝、徐桂英夫妻のもとで、同人らを父母(以下、養父母という。)として成育し、昭和二八年(一九五三年)に丹東市○○小学校に入学、昭和三四年(一九五九年)同校を卒業して丹東市○○中学校に進み、昭和三七年(一九六二年)に同校を卒業したが、その頃養父母が病身で更に勉学を続けることができなかつたため、昭和三八年(一九六三年)一月以降丹東市で臨時工として勤務を始めた。以来申立人は、同市内でボイラーマンとして働いたり、ボイラー取付け作業に従事したが、昭和五七年(一九八二年)以降は、同市内のブラシ工場で販売管理部門の仕事に従事して現在に至つている。

(4)  この間上記養父母間には、昭和三四年(一九五九年)に実子陳孫慶が生まれ、申立人は同人を弟として暮してきたが、昭和四二年(一九六七年)一一月に養父陳錫宝が死亡したため、その後養母徐桂英は中国人王徳栄(一九二〇年生)と再婚した。また、申立人は、昭和四三年(一九六八年)四月七日中国人女性李麗蘭(現在三七歳)と結婚し、同女との間に三子をもうけている。

(5)  申立人は、養父母のもとで実子として育てられたため、自分を中国人として疑わなかつたが、小学校在学中、時に友人から「貰われ子」とか「小さい日本人」、あるいは「日本の鬼子」などといわれたことがある。しかし、当時は養母に尋ねてもそんなことはない旨否定され、養母がその友人を叱るなどしていたため、申立人は格別これを気にとめないで過した。また、申立人は、昭和三八年(一九六三年)頃友人から、養父は申立人の本当の父ではないと聞かされて気になり、養父母に確かめようとしたことがあるが、愛育してくれている養父母にこれを問い質すことができず、そのままに終つた。その後昭和五一年(一九七六年)頃までの間、職場では次第に日本人に対する差別的取扱いが行われる風潮にあつて、申立人は、時に、周囲から日本人として白眼視されたり警戒の眼を向けられているように感じることがあつたものの、特段のことなく過してきたが、昭和五〇年(一九七五年)頃申立人の妻から、申立人が日本人孤児であることを近所の人から話を聞いたとして告げられたため、近隣の人達の間では申立人を日本人であるとみている者が少なくないことを知り、以来申立人は、自分が日本人孤児であることをはつきり自覚するに至つた。

(6)  申立人は、その後養母に話を聞き、また、周興林を訪ねて自己の身元の確認に努めたが、申立人が同人らから聞いて確かめたところでは、

<1> 申立人の実父母は昭和二〇年(一九四五年)の終戦時まで中国黒龍江省(当時牡丹江省)東寧県の農場で農業に従事していた、おそらくは日本人開拓団に属していたと思われる日本人夫婦である。

<2> 申立人の実父は、昭和二一年(一九四六年)四月初め頃、当時七、人歳、五、六歳及び三歳位の多分三人の男子と、生後八か月位であつた申立人とを連れて上記農場方面(中国北部地域)から丹東市まで避難して来て日本人避難民の避難所であつた同市内の日本住宅区に一旦身を置いたが、当時申立人は眼病を患つており、健康状態も良くなかつたため、実父は申立人の廷命を図るため、たまたま知り合つた隣人の中国人周興林に依頼して陳錫宝、徐桂英夫妻に申立人を預けたものであり、その後間もなく申立人の実父は、同市を去つた。

<3> 申立人の実父は当時三五歳位であつたが、同人の妻は多分申立人を出産後まもなく死亡した模様で、申立人らが丹東市に来た時は、一緒に来てはいなかつた。

<4> 申立人の実父は、同市を去つたあと、申立人の兄らを連れて日本に帰国したと思われる。

以上のような事実が判明した。

(7)  申立人は、養父母に引取られた当時のことは、その年齢にかんがみ、全く記憶はないが、養母の記憶では申立人を引取つた時申立人は赤紫色の地に茶色の縞柄の入つた日本式の着物を着ており、角膜炎で眼を赤く膨らしていたということであり、申立人自身も、三、四歳の頃まで眼が直らず、雪の日に養母に連れられて医者に行つたことは記憶している。

(8)  申立人の右腕には、現在縦に三個ずつ二列に並んだ種痘痕があるが、終戦前中国東北部(旧満州国地域)では、種痘は全住民に対し一般的に行われていたものではなかつたとみられるところ、日本人の子については天然痘予防法に基づき生後一歳位迄の間と小学校入学の前後頃に強制的にこれが実施されており、市街地等の中央地域では各県庁所在地である県立病院でこれを行い、四個所程接種するのが通常であつたが、地方地域では、その効果の確実を期して五、六個所に接種することもあつた模様である。

(9)  申立人は、上記のとおり日本人孤児であると自覚して以来どうしてよいかわからず悶々としながらも、妻や近所の者らの態度も従来と特に変らなかつたため、そのままに日を過していたところ、昭和五二年(一九七七年)に至つて中国政府の公安局外事部職員が申立人を訪ね、申立人を日本人として調査した上、困難なことがあれば外事部が協力する旨告げて帰つた。そこで申立人は、同年末頃公安局外事部に赴き、日本人として肉親を捜してもらえるか尋ね、同外事部から説明を受けて日本国政府大使館に初めて身元調査を依頼する手紙を出した。

(10)  その後申立人は、戦前安東市で生活していた日本人で組織する安東会の日本人会員が訪中してきた際、同会員と会い、日本人孤児証明書を入手しておく方がよい旨示唆されたため、その取得手続をしたところ、安東市公証拠は、養父や周興林をはじめ、近所の人らについても申立人の身許等を調査した上、一九八〇年(昭和五五年)八月七日付をもつて申立人に「公証書」を交付した。この「公証書」には、中華人民共和国遼寧省丹東市公証処公証員作成名義で、日本血統孤児証明書((八〇)丹証字第一一〇号)と題し、陳秀栄(男、一九四五年出生、現住丹東市○○区○○○街×××号)が安東市で陳錫宝に収養された日本血統孤児であることを証明する旨の記載がある。

(11)  申立人によれば、中国では、日本人孤児は毎年末公安局に報告することとされており、申立人は現在この報告手続を覆行している。

(12)  申立人の日本国政府に対する身元調査依頼は、外務省を経由して昭和五四年(一九七九年)六月二日原生省に到達し、これに基づき同省において申立人につき孤児調査票(No.七〇三)が作成されているが、同票及びこれに関連する資料には、おおむね上記(6)に掲記の事項の記載があるほか、申立人の生年月日を昭和二〇年(一九四五年)八月二二日とし、その血液型をA型とする記載がある。

(13)  申立人は昭和五五年(一九人〇年)頃、他の日本人孤児から紹介を受けて丹東市○○区○街××組××号在住の小野田まさと会い、同人に肉親捜しの方法等を相談した。同人は同年一月日本に帰国した際、申立人の依頼を受けて申立人の身元調査を茨城県に伝達しており、この依頼は、その後茨城県から厚生省援護局に通報されている。

(14)  昭和五八年三月厚生省援護局が中国遼寧省居住者について作成した「肉親捜しの手がかりを求めている中国残留日本人孤児(その2)」(いわゆる孤児名簿)には、上記(12)及び(13)の資料等に基づき、申立人に関する事項も登載されている。

(15)  申立人は、昭和五九年(一九八四年)五月二〇日付で本件申立人代理人に、申立人が日本人として国籍及び戸籍を取得するに必要な手続一切を委任する旨の委任状を送付しており、本件就籍申立てはこの委任状に基づいて同年一一月一六日に提起されているものであるが、その後申立人は、厚生省援護局による第六回訪日孤児面接調査の対象者として同年一一月二九日に来日し、同年一二月一二日中国に帰還した。 (当裁判所は、この申立人の滞日期間中に、申立人に対し家庭裁判所調査官による面接調査を行つたほか、同年一二月一〇日に審判期日を開いて申立人及び参考人山本初に対する審問を行つた。)。しかし、上記申立人の訪日調査の結果によつても、申立人の身元につき新たに判明するところはなかつた。

(16)  申立人は、かつて自己の意思で中国籍を取得しようとしたことはなく、日本人孤児として自覚して以後は、自らを日本人であると考えており、養母や妻子らもこれを認めているとして、本件申立てがすみやかに認容されることを強く希望している。そして、もし、本件申立てが認容された場合には、弟として暮してきた陳孫慶が親の面倒をみてくれることになつているので、申立人は妻子と共に日本に帰つて永住し、一日も早く日本に慣れて養母を安心させ、働きながら養母に送金等して孝養を尽したいと考えている。

(17)  申立人は、本件申立てが認容される場合には、申立ての趣旨どおり許可されることを希望しているが、就籍事項の中でも特にその氏名については、申立人が本件就籍申立てをすることを考え始めた昭和五八年(一九人三年)頃、その中国名から栄の一字をとると共に、木や山が栄えるという意味をこめてみずから考えたものであり、以来日本名としてこれを用いてきていること、また、その生年月日については、申立人が養父母に引取られたのが昭和二一年(一九四六年)四月二二日頃であり、当時生後八か月位であつたことから、逆算して昭和二〇年八月二二日と自称してきていることを根拠としている。

2  (国籍の取得)

(1)  上記認定事実によれば、申立人は昭和二〇年(一九四五年)に出生し、生後八か月位であつた昭和二一年(一九四六年)四月二二日頃安東市(現在の丹東市)において氏名不詳の男性から、中国人周興林を介して中国人である陳錫宝、徐桂英夫妻に預けられたものであるが、<1>周興林及び徐桂英らは申立人を預けた氏名不詳の男性は、昭和二〇年(一九四五年)頃まで多分東寧県の日本人開拓団農場で生活していて、昭和二一年(一九四六年)四月初め頃同農場方面から申立人及びその兄らを連れて安東市の日本住宅区に一時避難してきた日本人であると考えていること、<2>上記氏名不詳の男性は、当時三五歳位であつたとみられること、<3>当時申立人は日本式の着物を着ていたこと、<4>申立人の右上腕には六個の種痘痕があるところ、終戦の頃まで中国東北部(旧満州国地域)方面で行われていた種痘の実施状況等にかんがみると、その種痘は、おそらく申立人を日本人として施されたものであると推認されること、<5>申立人は現に中国において日本人孤児として取扱われていること等が認められるから、これらの事実を総合すると、陳錫宝、徐桂英夫妻は申立人の実父母ではなく、周興林を介して同夫妻に申立人を預けた男性が申立人の実父であり、しかも同人は氏名不詳ではあつても状況上日本人であると判断して差支えないと考えられる。

(2)  そして、申立人の実母についても、その氏名等を直接証する資料はないが、<1>申立人の実父の年齢が三五歳位で、同人は安東市へ避難してきた際申立人と共に申立人の兄とみられる三人程の子を連れてきていたこと、<2>これらの子の年齢が、一般に夫婦間でもうけられる子について認められる年齢差で順次構成されていたとみられること、<3>申立人の実父が日本人開拓団の一員であつたとすれば、当時のその生活形態や上記子らの存在等から、申立人の実父には妻に相当する日本人女性(状況上法律上の妻であろうと思われるが、これを確認するに足る資料はない。)があり、この女性が申立人の実母であると考えるのが自然であること(この推認を左右するに足る証拠はない。)等に照らし、申立人の実母もまた、日本人であると判断するのが相当である。

(3)  したがつて、申立人は、上記(1)及び(2)によつて認められる日本人男女間の子として出生したものと認めるのが相当であり、申立人は、その出生当時施行されていた国籍法(明治三二年法律第六六号)第一条仮に第一条に当らないとしても第三条に基づき、出生により日本国籍を取得したものというべきである。

3  (国籍の喪失)

(1)  上記認定事実によれば、申立人は、現在中国において日本人孤児としての取扱いを受けているものであり、この取扱いを受けるに至る以前においては中国人として取扱われていたものであることが認められる。しかし、申立人がかつて中国人として扱われていたのは、陳錫宝、徐桂英夫妻が出生後間もない申立人を預り、以後申立人を同夫妻の子として養育してきたことによるものであつて、申立人自身については、自己の意思に基づき中国国籍を取得しようとした事実はこれを認めることができない。また、他にも、申立人がその出生によつて取得した日本国籍を、その後喪失したことを窺わせる資料はない。

4  (本籍)

上記2及び3によれば、申立人は現に日本国籍を有する者ということができるところ、申立人については他にその身元を明らかにする資料は見当らず、本籍の有無も明らかでない。したがつて、申立人については就籍を認めるべきである。

5  (就籍事項)

(1)  申立人が、本籍を東京都千代田区○町×丁目×番地、氏名を山崎栄、生年月日を昭和二〇年八月二二日として就籍許可を希望していることは上記認定のとおりである。そして、本籍及び氏名については、その希望どおりこれを認めるのが相当であり、生年月日については上記認定事実に照し昭和二〇年の八月頃と推認できるに過ぎないが、申立人が日本人孤児としてすでにその生年月日を一応昭和二〇年八月二二日として使用してきていること上記認定のとおりであり、その月日が推認される生年月日とそれ程大きな違いがあるとは認められないことを考慮すると、申立人の希望どおりこれを認めて差し支えないと考えられる。

(2)  申立人の父母の氏名は、いずれも明らかでない。したがつて、いずれもこれを不詳とすべきである。

(3)  上記認定のとおり、申立人は男性であり、また申立人の父母は夫婦であつた可能性が認められるものの、法律上の婚姻関係にあつたか否かまでは明らかでない。したがつて、申立人とその父母との続柄については、これを男とすべきである。

6  (結論)

以上のとおりであるから、申立人については、主文掲記のとおり就籍を許可することが相当である。よつて、主文のとおり審判する。

(家事審判官 山田博)

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